零傷

 

零傷
 
咲の真っ白な背中を見ていると思わず血の色が滲むような錯覚に囚われる。眠っている咲はけして私のほうを向いて眠ることはない。
私は毎晩白い背中だけを見つめながら眠るのだ。
少しマニキュアの剥がれた爪で背中に線を引くと、一瞬だけ、「ピクッ」と反応を見せる。でも、また深く眠ってしまう。
それでも、私の体は確実に彼女と触れ合っているのだ。
貴女に抱きつくとまるで死んだ人のように冷たくて、そのひんやりとした感覚がまた病みつきになってしまう。
いつになったら、私の方を向いてくれるのだろう。
私に背を向けて眠る彼女との生活に、私はそろそろ嫌気が差しはじめてきていた。
世の中にはやってみないとわからないことがたくさんある。
その人の気持ちになってみないとわからないこともたくさんある。
 
ある日、家に帰りドアを開けると真っ赤な雫が廊下を蛇行していた。私はその場に鞄を落とすと急いでリビングに駆け込んだ。
また、あれか…
雫はリビングにたどり着くと大きな波となって床に打ち付けていた。真っ赤な波の先には小さく包まって震える彼女がずっと泣きながら何かに取り付かれたように小言を言っていた。
私は手馴れたようにいつものクローゼットから、救急箱を取りガーゼを出す。私は無言で彼女を抱きしめ、手首と血まみれになった右足首にガーゼを当てる。
少しだけ…少しだけなら彼女の気持ちがわかるような気がした。
「ぱ、パパ・・・ご、ごめんなさい、もうしません。も、もうしないから、やめて・・やだよ・・・」
彼女は自分からはけして精神科になんていきたがらないから、連れていっていない。いや、それ以前に彼女の本名も出身地も年齢も知らない私にはどうすることもできなかった。
ただ、彼女がゆえという名前であること、重度の精神的なコンプレックスと手首を切って暴れることだけが趣味だということしか知らない。だけど、うちに住んでる。
 
昔の私のように路上で泣いてる子を見たのは初めてだった。
そのときも彼女はお父さんに謝っていた。 
それはもう、明け方だった。
ホストクラブで散々遊んだ私は楽しい気分と吐き気半分で薄明るくなった繁華街を一人でふらふらしていた。
分厚いラバーソールが重たい。今すぐ服を脱ぎ捨てたい気分だった。軽く息が上がって調子に乗って煽られて飲んだ強い酒が込みあがってきた。
「う、まずい…は、吐きそう」
電信柱に思わずしゃがみ込んでしまった。
世界がぐるぐる回っていた。鞄も靴も脱ぎ捨てて、電信柱に寄りかかる。「うぅ…気持ち悪い」
私は絶えられなくなって、電信柱から横に滑って倒れこんだ。「や、やめとけばよかった。あ、あのホストめ…
なぜか、酒を飲ませたホストを何度も呪った。このまま、警察に保護されるのだろうか?そんなことも考えたりした。
息があまりにも苦しくて寝返りを打つように反対側を向くと、ぼやけた視点の先に同じようなラバーソールを履いて、しゃがみ込む物体が見えた。こんな所にも私と同じ馬鹿がいるのかと思った。でも、彼女は靴を脱ぎ捨ててもいなかったし、地面に転がってもいなかった。まあ、常識を考えれば当たり前ではあるが…
でも、こんな時間に自分と同じで繁華街に一人でうな垂れている人間がどんな奴なのか気になった。
そんなことを思った私はゆっくりと起き上がり繁華街の中央に脱ぎ捨てられたラバーソールを拾って足元にそろえた。
最初は酔っ払っていて視点も定まってなかったし、正直、足元の靴しか見てなったから全くわからなかったけど近づいてみると白のヘッドドレスに片側がピンク、もう片方が金髪のツートンカラーの髪をしたロリータファッションをした女の子が卵か貝殻から生まれたかのようにうずくまっていた。
なんだ…可愛い格好してんじゃん。そう思って声をかけようとした。
 すると、「ごめんなさい・・ごめんなさい…」
小さな声でそう言っていた。正直、物凄く怖かった。酔っ払った勢いで近づいてしまったが、彼女は気がついていなかったのでやっぱり知らないふりをして立ち去ろうと思った。
少し下がって、遠巻きに彼女を眺めると、ラバーソールの近くにがぽたぽたと血が滴るのが見えた。
それを見た私は酔いが一気にさめてしまった。私は放り投げていた鞄を抱えて走って逃げた。
「まさかとは思うが、殺人犯とかじゃないよね?」「あ、なんか事故に巻きこまれて怪我したのかも・・・」いろいろ考えながら大きな通りまで走り抜けた。
さっきまであんなに気持ち悪かったのにすっかり走っても大丈夫なくらいまで回復していることは自分でも気がつかなかった。
 早朝の大きな交差点にはぽつぽつと人が歩き始めていた。私はひとまず落ち着くためにコンビニに入ることにした。中に入ると物凄くだるそうにした、よくわからないロック調の格好に上から制服を羽織った店員が立っていた。一瞬、この店員にあの血まみれの子のことを言って助けてもらおうと思ったが、やめた。
どう考えたって何も考えずに警察に連絡されるのが落ちだと思ったからだ。それも、悪くないと思ったがなぜか警察に連絡しちゃいけないような気がした。私は白いタオルと消毒液とミネラルウォーターを無意識に手にしていた。
けだるそうな店員が適当に袋に詰めていく。私はその袋を奪い取ると、いるかどうかもわからない彼女のところに向かって少し早足で戻ることにした。
 さっきまでふざけて飲みまくっていたホストクラブの前を通り過ぎる。
酔いが覚めてから気がついたが私は駅とは逆方向に歩いていたらしい。だんだんと歩みを進めるうちに彼女がいなくなってしまったのではないかという不安に襲われ始めた。
 少し走るとさっきまで私が酔いつぶれて死んでた目印の電信柱が見えた。
立ち止まって横をゆっくりと覗くと、そこにはまだロリータファッションの彼女が座っていた。私は安堵のため息つくと、覚悟を決めてそこに座る彼女に話しかけた。
「ちょっと、あんた…大丈夫?」
私はしゃがみこんで彼女を覗き込んだ。足元の血は固まり始めていた。
「あんた、怪我してんの?いま、消毒液買ってきたんだよ。」
すると、ロリータの少女は目覚めるように顔を上げた。
彼女の顔は真っ白なのに目の周りだけ真っ赤に腫れていた。
「あなた、誰?」こちらを向いた少女の顔は怯えていた。
そう言われて、私は考えてしまった。私は誰だ?
とりあえず、あんたと同じでその辺に転がってた飲んだくれだよ。とでも言っておけばよいのだろうか。いや、今はそんなこと言ってる場合じゃなかった。
 「そんなことより、あんた血が出てるみたいだけど大丈夫なのかよ。ていうか足元とか服とかに血、付いてるじゃん。」
とりあえず、私は自分のことは棚にあげることにして買ってきたタオルや消毒液を出した。
「え? あ、大丈夫です。気にしないでください。」
少女はやはり泣いていたようでいろんなものをすすりながらそう答えた。
まあ、気にしないでくださいと血まみれの人に言われてもなんの説得力もない。こんなことするの初めてだったけどなんかほっとけない気がした。私は消毒液を白いタオルいっぱいに振り掛けると顔を覆っていた、細い手を引っ張った。
「え? いや、いいですよ。」そう言われたが強く引っ張ってみると案の定そうだった。
ざっくりと切れた、左の手首が視界に広がった。
そう、だいたい夜明けの町で泣いてる子なんてそんな子ばかりなんだ。それは夜明けの町で泣いてた私が一番よく知ってる。
彼女は怒った猫のように怯えて、「な、なにするんですか?いいって言ってるじゃないですか。やめてください。」と左手を強く自分のほうに引いた。私は掴んだ手を離さなかった。
 「あんた、泣いてたんでしょ?私にもその気持ち…少しだけならわかるよ。」
掴んだ手から血が滴る。私だって昔はこんなことばっかりだった。なんで泣いてるのかわからないけど私にはほっとけない気がした。
「私もあんたと同じだよ。」
ゆっくりと左の袖をめくった。無数に刻まれた私の痛みと傷跡の刻印…それを見た彼女はどこか苦しかったものがあふれ出るかのように泣き出した。
まるで幼い子供のように。
私は彼女の腕をゆっくりと消毒液の染みたタオルで拭いたあとそのまま腕に巻きつけた。
「ここに居たら、たぶん警察とかにいろいろ聞かれちゃうと思うよ。とりあえず、行こうよ。」
彼女は俯きながら、頷くと強く、私の服を握った。
 
それから、その場所からさっきの大通りに戻って、タクシーで家に帰った。
彼女は全く寝ていないようでタクシーの中で熟睡していた。でも、寝ながらも彼女はずっと泣いていた。
私の家に着くと私も彼女もぐっすり眠った。
本当は手当てしてあげようと思ったんだけど、眠気が押してとても耐えられなかった。
 携帯のバイブが鳴っているのに気がついて目が覚めた。起き上がるとものすごく頭が痛かった。携帯にはしんやと出ていて、一瞬誰かと思ったが思い出してみると昨日のホストだった。昨日も月末で順位が確定するから来てほしいという電話があった。きっと今日も同じ電話だろう、そう思っていつもみたいに壁に携帯を投げつけた。
「ああ、うざ。」壁にあたった携帯の向こうに真っ白なロリータ衣装が掛かっていた。一瞬誰のだかわからなくなったが、少し血で染まっているのを見て彼女のことを思い出した。
そうだ、あの子は…と起き上がると、目の前に黒いスエットの少女がテレビを見ていた。
「あ、おはようございます。お邪魔してます。」とぺこりとお辞儀した。
昨日のことからは想像もできないほど穏やかだった。
「勝手に連れてきちゃってごめんね。手は大丈夫?」
こっちも少し拍子抜けしてしまったが、すぐに平然をとりもどした。
「はい、腕はいつものことなので慣れっこです。」そう言って彼女はきれいに包帯の巻かれた腕を見せてくれた。
「そっか、ならよかった。あ、私は咲。よろしくね。」と軽く自己紹介などをふってみた。すると彼女はあわてて
「あ、昨日は本当にありがとうございました。泊まるところもなかったので本当に助かりました。私はゆえといいます。よろしくおねがいまします。」と再度お辞儀をした。
「え、泊まるところないの?なに、家出?」私はさぐりを入れつつキッチンで珈琲を作り始めた。「まあ、そんなところです。ちょっと家に帰れない事情があって・・・」
「お母さんとか心配するんじゃないの?」
「いえ、母はいません。父もいますがちょっといまはいろいろと問題があって…」と少し落ち込んだ様子の彼女。
「そんな、落ち込まないで。別に私は追い出したりしないよ。好きなだけ使っていいから。ちょうど一人が寂しかったところだし、なにより連れてきたのは私だからね。」
そう言うと彼女は嬉しそうに「お世話になります。」とだけ言った。私も嬉しそうに「私のスエットぴったりだね。」とだけ言い残してお互いを見合わせた。

これが私たちの出会い・・・

 

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